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資料來源:シネマーぴあ
宛如變色龍般多變的演技,徹底融入角色的演員....。
演技倍受各界好評的山田孝之,在最新作品『MW~毒氣風暴』中,所要挑戰的是「人類的代表」~人性化的神父角色。
演技倍受各界好評的山田孝之,在最新作品『MW~毒氣風暴』中,所要挑戰的是「人類的代表」~人性化的神父角色。
從山田談論這部作品及角色關於「神」與「善惡」的一問一答中,我們同時也能一窺山田孝之本身具有的人格魅力。
徹底化身為角色的演員
挑戰「代表人類的角色」
山田的人格魅力在那?請看下面的評價──
山田的人格魅力在那?請看下面的評價──
「談到演員的職業意識,我覺得可以分為兩種,一種是客觀地把角色呈現在觀眾面前,一種是徹底地把自己融入角色,孝之就屬於後者。與其說他是在『演戲』,不如說他是逐漸化身為那個角色,在演戲的過程中,連日常生活的個性也隨之改變。換作其他共演者,我能看見他們進入角色的過程,也就是要正式拍攝時,會看見他們從『自己』切換為『角色』,但在孝之身上看不見這種情形。」
這些話出自曾與山田合作『漂丿男子漢(Crows Zero)』及其續集的やべきょうすけ(語出ぴあ出版的『Crows Zero II BLACK BIBLE』)。他口中那個私底下會變得跟角色越來越接近的演員,當然就是山田孝之。演員‧山田孝之就是這樣的一個人。
也就是說,山田是個宛如變色龍般的演員。這個評價如今已是眾所周知,大家都認同山田孝之是能隨演出的作品與角色,不斷變換面貌的演員。無論是『電車男』(村上正典執導/ '05年)中溫馴善良的草食系男子,還是『漂丿男子漢』(三池崇史監督/ '07年)中徹頭徹尾的肉食系男子,兩個角色雖然差了十萬八千里,演員卻是同一個人。正因如此,某個疑問不禁浮現在筆者腦海。該用怎樣的語詞來形容褪去演員光環,平常人那一面的山田孝之呢?
「這次演的是內心掙扎、煩惱的角色,內心累積了不少壓力,苦悶得很啊。不過,這次這樣正好,處於這種心情,才能更準確地演好角色,所以我總是逼自己苦悶一點。話雖這麼說,看到玉木(宏)演得很開心,還是會忍不住羨慕起來。我明明掙扎苦悶得要命,他卻能為所欲為,多不公平啊(笑)。雖然賀來這個角色在演出時也有一些樂趣,像是該怎麼傳達出他的氣質個性等,但他的心情不好揣摩,演出時感覺很辛苦。不過,我反而會設法讓這種辛苦的感覺更強烈,故意告訴自己『你是個沒用的傢伙、成不了氣候的傢伙』。這麼一想,就連平時的表情都變成這種樣子了。我覺得這樣對演出來說反而更好。把現在的頹喪心情直接套用,是成功演出不可或缺的要素。就是『能用的通通拿來用』啦(笑)」
這是山田談如何詮釋最新演出的作品『MW~毒氣風暴』的角色時所說的話。山田所飾演的賀來裕太郎,雖然想拯救墮入黑暗的青梅竹馬結城美智雄,阻止他一錯再錯,卻身不由己地被拉下水,成為邪惡的幫兇。身為神父的賀來,因為其侍奉神的身份而無法幫助背棄神的結城,也因為其侍奉神的身份而無法拒絕迷失的結城。而且,賀來和結城之間,還繫著某種超越一切、無法割捨的羈絆。
這果然是個內心掙扎煩惱的角色。對於演出的山田來說,「怎麼演」本身就是件令他掙扎煩惱的事,但這種掙扎煩惱卻也正是這次山田所追求的東西。擔任電影製作人的松橋真三說:
這果然是個內心掙扎煩惱的角色。對於演出的山田來說,「怎麼演」本身就是件令他掙扎煩惱的事,但這種掙扎煩惱卻也正是這次山田所追求的東西。擔任電影製作人的松橋真三說:
「『MW~毒氣風暴』想要描述的是惡魔般的結城與人類之間的戰爭,賀來就是人類的代表,拚命地掙扎、苦惱。因此,當初選角時,我就想找貼近真實人性的演員來演。而能把這種真實人性面表現出來的,除了山田之外,不作第二人想。在我思考該找誰來演的時候,第一個浮上腦海的就是山田。直到現在我仍想不出比他更適合的人選。」
直言自己並不信神
內心想法堅定不搖
對山田來說,「能夠演出人類的代表,體現出真實人性的演員」,就是種至高無上的稱讚了吧。沒錯,這次山田所要飾演的,就是一個有血有肉的平凡人。松橋製作人在談賀來這個角色時,說了下面這段話:
「山田讀了劇本,曾跑來問我『這個人說的跟做的不一致耶,為什麼?』,當時我這麼回答他:因為賀來是平凡人的代表。人類原本就是這樣的生物不是嗎?言行不一,想成為這樣的人,卻變成那樣的人,這就是人類。因此我說『請把這種特質演出來』,也跟他說『所以你的角色不好演』(笑)」(語出ぴあ出版的『MW VISUAL BOOK』)
要表現出人性的這種矛盾,並不是件容易的事。不過,正如松橋製作人所說的「這角色非山田莫屬」,在某種程度上,這正是山田孝之這個演員的強項。無論是『白夜行』(TBS系/ '06年)還是『手紙』(生野慈朗執導/ '06年),山田都把那種游走於愛與恨夾縫間的纖細青年詮釋得絲絲入扣。不過,這並不代表山田就是那樣的人。若非如此,他也不必設法讓自己徹底化身為角色了。也就是說,正因為他要徹底「化身」為角色,那角色便不是他原本的模樣。
此外,山田對賀來的行事存有疑問,並為此感到苦悶,正足以說明山田與賀來是不同類型的人。反過來說,演出這個角色之所以會讓山田覺得辛苦,或許就是因為他本身並不矛盾。
比如山田就表示:「我不信神,也不認為神存在」。『MW~毒氣風暴』也包含宗教上的「人類的原罪」主題,關於這點,當筆者問他「你相信這世上有一個左右人類命運的神嗎?」時,山田斷然回答:
「我能理解人們為什麼認為祂存在,也能理解為什麼許多人相信祂。但就我個人來說,我傾向認為一切都是出自偶然,這種說法我比較能接受。可能我比較頑固,或者說我存有某種偏見吧(笑),我非常討厭「運氣」這個詞。運氣很好啦,很壞啦,在我看來都是穿鑿附會,或說逃避的藉口。我覺得世上既沒有神,也不存在什麼命運,一切都是在偶然的情況下發生的,這麼想比較有意思,體內也會湧現一股力量。如果人生是被命運啦、運氣好壞這些東西所主宰,就太無趣了。在我看來,雖然周遭環境和狀況或許也會造成影響,但無論好事還是壞事,最終都是由自己的言行所決定的,跟運氣或命運沒有關係。」
山田就是這樣一個清楚把握內心那把尺的人。據山田說,他之所以會對『MW~毒氣風暴』這部作品感興趣,並被它所吸引,也是因為它碰觸到內心這把尺的緣故。
「要在現今這個社會生存下去,就得遵從法律,但若處在一個沒有法律的時代,或到一個沒有法律的國家,又該何所適從呢?我會去思考這些事。如果我的家人或周遭的朋友被殺了,我大概會把兇手揪出來償命吧。有這種想法絕不是什麼奇怪或危險的事。能像這樣激發自己思考的事物,我覺得非常棒。平時我就是個會想比較多的人,而這部電影有很多像這樣激發我思考的要素在內,比如誰才是最邪惡的,什麼才是真正正確的,選擇那個才是好的等等。嗯,就算看不見答案,或找不到答案都沒有關係,『思考』本身就已經很快樂了,而且也很必要,因為它能讓你看見自己,讓你找到比較好的生存方式,慢慢地能夠作更深一層的思考。」
雖說是變色龍般的演員,仍充分保有自己的顏色,這才是山田。不,應該說,正因為他在根本上保有自己的色彩,才能由此轉變為其他顏色吧。就算是賀來,雖然有苦悶的一面,其實也可說是一個貫徹始終的人物。演賀來的時候,山田便在心裡設下一個基準目標。
「我覺得賀來的想法是,無論發生什麼事都想跟結城在一起,如果做不到,一起死也無所謂……。事實上並不只有如此。人類或許總是搖擺不定,思緒也變幻無常,但還是有絕對不會動搖的部分。以賀來來說,就是想跟結城在一起。我覺得他的所有言行都是基於這個願望。實際上,他之所以阻止結城,並不是因為『身而為人』或『身為神父』這種冠冕堂皇的理由,只是因為犯了罪,就會被追被捕,兩人就會被分開,所以他才不希望結城繼續犯罪。我覺得除此之外,賀來就別無所求了。所以他的行動是沒什麼道理可言的,只是想跟結城在一起罷了。」
既自由又是拚命三郎
矛盾特質存於一體
身為演員,山田的表演幅度相當廣,但去除演員的身份後,他是個意志堅定的人。只不過,山田依然有所謂的灰色地帶,也就是無法明確劃分的部分。這點從他談論電影的主題~善惡觀時,便可窺知一二。
「日常生活中,判斷當下的行動是善是惡,其基準在自己的內心。畢竟法律及人際關係等,已經深入身體的每個細胞,完全灌輸到我們的腦海中了。但是在我看來,世上並不存在善惡之分。身為人做了那件事就是不行,身為人就是不能不這麼做,身為人就是怎樣怎樣的,老實說我對這些都抱著懷疑的態度。這些判斷到頭來都隨著時代與地點而變,善惡到頭來也只是人們決定的東西而已。根據現在的法律,殺人就是惡,但要是沒有這條法律,把它顛倒過來的話,殺人就完全不是什麼罪不可赦的事了。我個人並不認為殺人就一定是惡。在我看來,嘴裡嚷著『這就是惡』而大肆攻擊的傢伙才是錯的,有時我會忍不住想『惡的是你才對吧』。嗯,說到底,人的想法是因人而異的。有67億的人存在地球上,就有67億種形態的思想存在。一一去評斷它的對錯好壞,不是很可笑嗎?」
山田說,人類的言行本身並沒有善惡之分,到頭來,只是在做自己想做的事情時,由第三者來判斷這是善還是惡而已。雖然他的思想因此存有灰色地帶,但不代表他心懷某種矛盾。他只是在做自己想做的事而已,是善是惡就不知道了。若真有所謂善惡,那麼對他而言,善便是按照自己的想法前進,惡則是猶豫躊躇著後退。事實上,這正是山田孝之這個演員衡量事物的指標,或許也是構成山田孝之這個人的要素。意即在灰色地帶勇往直前的同時,將清楚展現在那裡的顏色作為答案殘留下來,並把它當成功績逐漸向上累積。
山田說,人類的言行本身並沒有善惡之分,到頭來,只是在做自己想做的事情時,由第三者來判斷這是善還是惡而已。雖然他的思想因此存有灰色地帶,但不代表他心懷某種矛盾。他只是在做自己想做的事而已,是善是惡就不知道了。若真有所謂善惡,那麼對他而言,善便是按照自己的想法前進,惡則是猶豫躊躇著後退。事實上,這正是山田孝之這個演員衡量事物的指標,或許也是構成山田孝之這個人的要素。意即在灰色地帶勇往直前的同時,將清楚展現在那裡的顏色作為答案殘留下來,並把它當成功績逐漸向上累積。
談到自己是個怎樣的人時,山田笑著說:「我這人有點隨便耶(笑)」。但想來這應該是一半玩笑,一半掩飾害羞的話吧。前面提到的松橋真三製作人,曾說過一段令筆者印象深刻的話。
「雖然山田說『我是個吊兒郎當的人』,事實上卻非常認真,在演技方面也非常投入。有一場他受傷的戲,山田說『血從這裡冒出來,代表這裡很痛對吧?』然後就朝那個部位用力打,一直打到快瘀青為止。」(語出ぴあ出版的『MW VISUAL BOOK』)
山田知道,要做自己想做的事,就得付出相對的責任和努力。他是個自由地活著的拚命三郎。對一般人而言矛盾的事,在人類‧山田孝之身上,卻毫無矛盾地並存著。
善と悪
カメレオン俳優、なりきり型の役者…。
その演技力には定評ある山田孝之が、最新作『MW-ムウ-』で挑んだのは「人間の代表」である人間くさい神父役。
作品と役柄をめぐる「神」と「善悪」の問答から山田孝之自身の人間性の魅力が見えてきた。
役自身になりきる俳優が挑む
「人間の代表」である役どころ
例えばそれはこんな言葉――。
「役者のプロ意識っていうことで言うと、客観的にきちんと自分のことを見られるプロ意識と、その役に入り込んでしまうことができるプロ意識があると思うんですよ。孝之は完全に後者なんですよね。役作りをしていると言うより、本人が役自身になっていくタイプで、普段の性格すら変わってしまう。ほかの共演者に関して言うと、役に入っていく過程が見えたりもするんですね。本番に向けて、素の部分からスイッチが切り替わっていくというか。でも孝之は、それが一切見えないんですよ」
そう語っていたのは、『クローズZERO』『クローズZEROII』で彼と共演したやべきょうすけ(ぴあ刊『クローズZEROII BLACK BIBLE』より)。普段から本人が役自身になってしまうと語られているのは、もちろん山田孝之のこと。役者・山田孝之は、そんな言葉で表される人物だ。
曰く、カメレオン俳優。その評価はすでに周知のもので、作品ごとに役柄ごとに変貌して見せるのが山田孝之という役者。なにしろ『電車男』(村上正典監督/ '05年)で見せた究極の草食系男子も、それこそ『クローズZERO』(三池崇史監督/ '07年)で見せた究極の肉食系男子も、演じているのは同じ人物。それだけに、こんな疑問も浮かんでくる。人間・山田孝之はどんな言葉で表するべき人物なのか。
「葛藤して悩む役だから、フラストレーションが溜まって、もやもやしてましたね。ただ、今回はそれでいいと思ってたんですよ。常にあえてそう感じるようにもしていたし。そう言いながらも、玉木(宏)さんは楽しそうでいいなって思ったりもしましたけどね。こっちは葛藤してもやもやしてるのに、好き勝手なことやって(笑)。賀来も賀来で、いかに空気感で伝えていけるかっていう楽しさがあるんですけど、心情的な部分の難しさもあるし、やっぱり気持ち的にはしんどいから。でも、そういう思いももっと強く感じるようにするというか、わざと自分に“何もできないヤツなんだ。煮えきらないヤツなんだ”って言い聞かせるようにして。そう思ってたら、普段からやっぱり顔つきなんかもそういう感じになっていくし、それが出せれば逆にもっといいかなと思ってたんですよ。なんかひとつの要素になるかなって。今感じてることもそのまま使っちゃえ! と。使えるものはなんでも使おう!! みたいな(笑)」
というのは、最新作『MW-ムウ-』における役作りに関して山田が語った言葉だ。山田が演じた賀来裕太郎は、闇に堕ちた幼なじみ、結城美智雄を救おう、止めようとしながらも、彼に引きずられて悪事に手を貸してしまう。神父である賀来は、神に仕える身ゆえに神に背く結城に加担することもできないが、やはり神に仕える身ゆえに迷える結城を拒むこともできない。そして何より賀来は、結城とは切っても切れない絆で繋がれている。
まさに葛藤して悩む役。それは演じる側の山田にしても同じだったようだが、その葛藤の表現こそ今回の山田に求められたものでもある。本作の製作を務めた松橋真三プロデューサーは、こう語っている。
「『MW-ムウ-』で描きたかったのは悪魔である結城と人間たちとの戦いで、賀来は言ってみれば、その人間の代表。必死にもがいて、苦悩することになる。それでとにかく人間くさい方にこの役はお願いしたいと思っていたんですが、そこを表現できるのは、山田さんしかいないんじゃないかと。単純に誰がいいか考えた時に、山田さんしか思い浮かばなかったですね。未だに山田さんのほかには思い浮かばないです」
神は信じないと言い切れる
自分の中の指標のぶれなさ
人間の代表を演じられる人物で、人間そのものを体現できる役者。山田にとってもこれは、最高のほめ言葉だろう。そう、今回山田が演じているのは、まさに人間。また、松橋プロデューサーは、賀来役に関してこんなことも語っている。
「山田さんが台本を読んで、『この人は言ってることと、やってることが違いますね。これはどういうことですか?』って言ってたんですよ。その時にも、『賀来は人間代表なんです』という話をしました。そもそも人間って、そういうものなんじゃないかって。言葉と行動がバラバラで、こうありたいって思っていてもそうならないのが人間。『それを演じてください』と。『だからあなたの役は大変です』という話もしました(笑)」(以上、ぴあ刊『MW VISUAL BOOK』より)
人間の矛盾を表現することは、なるほど難しいことだ。ただ、松橋プロデューサーが「山田さんしかいない」と語るように、ある種、それは山田孝之という役者の得意とするところでもある。『白夜行』(TBS系/ '06年)、『手紙』(生野慈朗監督/ '06年)でも愛と憎しみの狭間を行き来する繊細な青年像を山田は見事に演じ上げた。しかしそれすなわち山田自身の姿ではないことは、彼がなりきり方の俳優であることからもわかる。つまりなりきっているだけで、それは彼自身ではない。
また賀来に対して疑問を感じて、もやもやしていたということは、山田自身はまた違うタイプなのだということでもある。裏を返せば、山田にとってこの役が大変だったのは、彼自身は矛盾のない人間だからということにもなるかもしれない。
例えば山田は、「神は信じないし、いないと思います」と、そう語る。人間の原罪という宗教的なテーマも『MW-ムウ-』ははらんでいるが、それに関して“人の運命を左右する神という存在は信じるか?”と訊いてみると、山田はきっぱりこう答えた。
「いるという気持ちもわかるんですよ。信じたいという気持ちもわかる。でも自分にとっては、すべて偶然だって言ったほうが、なんかしっくり来るんですよね。そう言われたほうが納得がいく。なんか僕の心が頑固っていうか、ひねくれてるからっていうのもあるかもしれないけど(笑)、“運”っていう言葉がすごく嫌いなんですよ。運がよかったとか、悪かったとか。こじつけというか、逃げというか。そんな気がして。神なんていなくて、運命なんてなくて、すべては偶然のうえに成り立っているんじゃないかって。そう思っていたほうが楽しいし、力も湧く。運命だとか、運がいいとか悪いとかっていうことで、何かを決めてしまうのはつまらないと思うから。まわりの状況や環境の影響もあるだろうけど、いいことも悪いことも結局は自分の言動によってそうなったことなんだから、運や運命なんてものはないだろうって思いますね」
自分の中の指標をはっきりと持っている人。『MW-ムウ-』という作品に興味を覚え、惹かれたのも、その指標に訴え掛けてくるものがあったからなのだと山田は言う。
「今の世の中で生きていくためには、法律に従う必要があるけれど、じゃあ法律がない時代になったらどうだろうとか、法律がない国に行ったらどうだろうとか。僕自身、そんなことも考えましたよ。もし家族やまわりの友達が誰かに殺されたら、たぶんそいつを殺すかもしれない。そう思ってしまうことって、決しておかしなことでも危ないことでもない。そうやって考えさせるのって、すごくいいなと思います。僕は普段から、わりといろいろ考えるほうなんですよ。この映画は、そうやって考えさせてくれる要素がいっぱいある。誰が一番悪いかとか、何が本当に正しいんだとか、どれがいい選択なのかとか。まぁ答えは別に見つからなくていいし、見つけなくてもいいと思うんですね。ただ考えるのって楽しいし、必要なことなんじゃないかなって。自分自身が見えてくるし、世の中はこうであったほうがいいとか、深い考えがちゃんとできるようになると思うから」
カメレオン俳優であっても、自分自身の色もきちんとあるのが山田だ。いや、自分自身の色が根本にあるからこそ、それをあえて違えて他の色にも変貌できるのだろう。そもそも賀来にしても、もやもやはしていても、ぶれてはいない人物なのだと言える。賀来を演じるに当たって、山田の中でひとつ向かうところとして定まっていたことがある。
「何があっても賀来は結城と一緒にいたいんじゃないかなとは思ってましたね。それが無理だったら、一緒に死ねばいいし……みたいな。実はそれだけじゃないかなって。人間だからやっぱり常に揺れてるだろうし、考えなんてなかなかひとつに定まらないとは思うんですよ。でも絶対ぶれないことがあって、それは一緒にいたいっていうこと。何を言うにしても、何をやるにしても、ただ一緒にいたいんじゃないかと思いますね。実は“人として”とか、“神父として”とかもなくて、犯罪を犯すことによって追われてしまったり、捕まってしまったりすると一緒にいられなくなるから止めて欲しいとか、そんなもんなんじゃないかなって。ただそれだけしか望んでない気がしますね、僕は。だからきっと理屈じゃないんですよね。ただ、いてくれればいいっていう」
自由にしてストイックという
矛盾を並べ立てて見せる人間
役者として振れ幅はあっても、人間として揺れ動くことはない。ただ、そんな山田にも、グレイゾーンはある。はっきりとは定まり切らないもの。それはやはり映画のテーマである善悪を語る中で出てきたものだ。
「普段生活してるうえで、とっさにとってしまう行動から考えれば、善悪の基準は自分の中であるとは思うんですよ。やっぱり法律や人間関係みたいなものは身体に染み付いてるし、脳に完全にインプットされてるから。でも自分の考えからすると、善も悪もないと思いますね。人としてあれをしたらいけない。人としてこれをしなきゃいけない。人としてどうこうっていうのは、僕の正直な意見としてどうかなと思うんです。それって結局は時代や場所によって変わってくることで、善も悪も結局は人が決めたことに過ぎないわけで。今は法律によって人を殺すことは悪になっているけれど、その法律がなかったら、まるで違っていたら、殺人も全然おかしなことじゃなくなる。僕自身も、すべての殺人が悪だとは思えない。なんか僕からすれば、“それは悪だ”って言って何か攻撃してるヤツのほうが間違っていて、“悪はお前だ”みたいに思えてくる時もあるし。まぁ結局のところ、人の考えなんて、人それぞれだから。67億人の人が地球にはいて、67億パターンの考えがあるわけで。それをいちいちどうこう言ってるほうがおかしいんじゃないかと」
人間の言動に善も悪もないと、山田は言う。結局、やりたいことをやってみた時に、第三者がそれを善と判断するか、悪と判断するかというだけの話。それゆえグレイゾーンでもあるわけだが、そこにおいて彼自身の中には何か矛盾があるわけではない。善か悪かはわからない。ただ、自分のやりたいことを、やりたいようにやる。善悪があるとしたら、善は思いのまま前進することで、悪は躊躇して後退すること。実はそれこそ山田孝之という役者の指標で、山田孝之という人間そのものなのかもしれない。グレイゾーンなまま突き進んでいきながら、そこできちんとしたカラーを答えとして残して、実績として築き上げていく人。
山田自身は自分という人間に関して、「俺はなんかダラーっとやってるけど(笑)」と語り、笑って見せる。しかしそれは冗談半分、照れ隠し半分だろう。前出の松橋真三プロデューサーの言葉が印象的だ。
「『僕はふざけた人間ですから』って彼は言うんですが、実はめちゃめちゃ真面目ですよ。演技も、すごくのめり込んでやってくれる。傷を負ったシーンでは、『ここから血が出てるっていうことは、ここが痛いんですよね』って言って、実際にその部分を打撲寸前まで自分でガンガン叩いてるんですよ」(ぴあ刊『MW VISUAL BOOKより』)
やりたいことをやるには責任も努力も必要なことを、彼は知っている。自由にしてストイック。普通の人にとって矛盾することを、人間・山田孝之は矛盾なく並べ立てる。
[寫在後面] 呼~好久沒翻譯了,衝著『MW~毒氣風暴』今天在台上映,趕緊補翻了這篇超級長的深入訪談。因為很多句子很難犛清它的組合邏輯,翻得格外痛苦,也花了格外多的時間,只希望沒有出太多錯就好了(那位達人看得出錯誤的話,煩請指正,先在此謝過)。
話說山田的想法真的很不錯,我尤其喜歡他說「無論有沒有答案,找不找得到答案,都不要停止思考」那段。以前考上哲學系,很多同學都是因為對人生抱有某些疑惑,希望能得到解答才去念的,想不到系上的學問並不能給他們答案,只會製造更多疑問而已。因為哲學系從來不是一個告訴你標準答案,讓你就此活得安心的地方,它要教給你的是理性思維的方法。對此,我知道很多人感到沮喪(甚至憂鬱症加重),我雖然還不至於絕望,心裡總是有點介意,直到看了山田這篇訪問,才有恍然大悟的感覺。
重點其實不在於思考能不能獲得解答,而在於思考形塑了你這個人。它能讓我們跟別人產生區隔,使我們的生存顯得獨一無二且難以取代。
另外就是山田的善惡觀也很有意思。雖然想起來已經有點接近虛無主義了。其實我覺得人生在世,不照別人訂定的規則生活,硬要思考每條規則背後的意義,及事物真正的定義與價值,是會吃虧的,也會活得挺辛苦。不過什麼都抱持著懷疑的態度也是一件好事,如此,對很多事都能比較寬容,不會動不動就激烈批判或指責,也不會盲從社會訂下的道德標準與價值觀。那些有先見之明的人,想來也都是先有懷疑,才有創新的。可見山田如果不當演員,去當哲學家應該也挺適合的(笑)
總之,山田真是個很特殊的演員,除了這我就想不出其他語詞來形容他了。為了體會角色的感受而打自己、連私下個性都化身為角色,這種事根本是前所未聞啊。要說敬業,實在無人能出其右。難怪這篇訪談的作者對他頗為偏愛,不斷替他解釋,說他不等於那些纖細感傷的角色、具有不變的「本色」等,熱心的程度令我不禁會心一笑。
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